うちは○売新聞を取っているんですが、地方欄に空き巣が捕まった記事がありました。犯人は21歳と若く、空き巣に入るときに「ガラスを割ると迷惑がかかるし、靴で入ると汚れる」と、鍵のかかっていない家を狙って靴を脱いで空き巣を繰り返したと書いてありました。弟と母親の3人暮らしで毎月6万円を母に渡していたとありました。
新聞記事で情状酌量を求めているのかな、と思いながら職場に来て○日新聞の同じ記事を見たら、全く違うことが書いてあります。犯罪の内容は同じですが、靴を脱ぐとか金を渡したとか全く記述がなく、遊ぶ金ほしさの犯行のように表現してありました。こちらは犯罪者は社会の敵だ、みたいな感じです。
さて、この犯人の人物像はどうなっているのかな、と考えたとき、ふと違和感を覚えました。新聞というか報道で伝えるべきは既に起こった真実です。何回も空き巣を繰り返している若い男が逮捕された。伝えるべき情報はこれだけです。だがこの二つの記事を並べると、別のものが見えます。前者の記事では生活に困った優しい若者が家族のために仕方なく犯罪を繰り返したかのようなニュアンスが見て取れますし、後者は最近の若者は自己中心的に犯罪を犯すから許せない、くらいの勢いが感じられます。
これが、いわゆる記者の主観ではないでしょうか。前者は同情的、後者は批判的な気持ちで記事を書いたのではないでしょうか(記事を書く時点で得た情報が違うから、というのは誤りです。他方が得られた情報を得られず、不十分な取材のまま記事を書いたということになります)。記者の主観によって、この事件は社会的弱者がたどる不幸な結末、いやむしろ社会が悪いくらいの感覚も引き出せますし、最近の若者はやっぱりだめだ、と多くの良識ある大人たちの同感を得られる事件にもなってしまいます。
私は、報道は真実を伝えることがなにより大事だと思います。記者の主観が入るとそれは“記者の目で見た事実(脳内含む)”になり、真実とは距離ができます。真実を見てどう思うかは自分で考えます。
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